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高橋是清財政からひも解くアベノミクスの現在地

2016/06/15

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1.高橋是清とは(前期)

【POINT 1】財政家としてのイメージとは裏腹に幼少期から苦難の時を過ごす
【POINT 2】投資の失敗など無一文の経験もする

現在の安倍総理、麻生財務大臣が見本にしている「高橋是清」とはどのような人物なのでしょうか。
「政治家」として活躍し、2.26事件で暗殺され、生涯の幕を閉じた是清(享年82歳)。その人生は実に波乱に満ちたものでした。

1854年、是清は江戸の芝中門前町(現在の港区芝大門)の茶店でうまれます。父親は絵師・河村庄右衛門、母親はこの家に女中奉公に出ていた16歳の「きん」。当時庄右衛門の妻が「身重」になった「きん」を哀れに思い、叔母の家で出産させました。是清は生後すぐ仙台藩の足軽高橋是忠の家に里子に出され、養子となります。

その後、横浜の私塾であるヘボン塾(現 明治学院大学)で勉学に励み、1867年(慶応3年)に藩命を受けて海外へ留学。その際に、ホームステイ先の老夫婦に騙されて年季奉公の契約書にサインをしてしまい、奴隷としてオークランドのブラウン家に売られてしまいます。様々な家を転々とし、苦難の時を過ごすこととなります。

1868年、仙台藩の年長の富田鉄之助に開放され、共に帰国。1873年、サンフランシスコで知り合った森有礼の口利きで大学南校(東京大学の予備校みたいなもの)の教師に。ところが、この頃から酒と芸者遊びにのめり込み、気づけば教師を辞めて無一文、芸者の荷物持ちになっていました。

その後、立ち直った是清は再び森有礼の文部省に出仕。東京外語大学、大阪外語大学の校長を歴任するも、この頃友人に財産を騙し取られ無一文に。その後翻訳業で生活を繋いでいた是清でしたが、鉄相場が儲かるとの友人の誘いに乗り、思惑買いが外れ、自己破産。なんとかそこを乗り切り、農商務省に出仕。特許関係の文献の翻訳に従事し、専門家としてヨーロッパ調査にいく程に。

ところが、やめればいいものをこの頃友人に「ペルーの銀山」への投資を進められ、農総務省を辞めて全財産をつぎ込み大失敗。その失敗を取り返そうと様々な事業に手を出し、重ねて失敗し、また完全無一文に。そしてここから是清の人生は一変します

2.高橋是清とは(中期)

【POINT 1】日銀入行後には外債発行責任者としての重責を担う
【POINT 2】日銀総裁就任後には緊縮・積極問わず、状況変化に合わせた財政手腕をふるう
【POINT 3】原内閣を引き継ぎ首相に就任後には、政策に対する反対にあい、政界から身を引くことになる

ここからは、一般の通史に登場する財政家としての高橋是清について紹介をします。先のペルー鉱山への投資の失敗後、明治25年6月に当時の日銀総裁川田小一郎に採用されます。その後、1904年の日露戦争時には、戦費調達のため外債発行責任者として、非常に厳しい環境下でありながら、重責を担いました。

日露戦争後には、不況期を迎え、政府が国民に対して様々な節約を訴える中、当時日銀副総裁を務めた高橋是清の提言により「金利革命」と呼ばれる数度にわたる公定歩合の引き下げが行われました。これは、この後に起こる井上デフレ期からの脱却を図った際の対応の礎になったと言われています。

その後、1911年に日銀総裁に就任し、山本権兵衛内閣時においては、緊縮財政路線の担当者として、蔵相に抜擢されます。就任後すぐに経費削減や人員整理を中心とする予算案を発表します。そして、1914年に起こった第一次世界大戦により、国民総生産が3倍近くになるという好況期を迎えます。

当然のことながら、政府の財政事情も大幅に改善されることになり、1908年以来続いた緊縮財政も積極財政への転換が行われることになります。是清については、1918年に成立した原敬内閣の蔵相に再び就任しますが、その約半年後に日銀総裁に就任することになるのが、井上準之助でした。

ここで、この先に幾度となく対立をする2人の初めての論争が行われることになります。第一世界大戦による、いわゆる「大戦バブル」に対して、公定歩合の引き上げによる引き締めを主張した井上に対して、低金利政策を主張した是清というような対立構造がはっきりとなってきた時期でもあります。

また、積極財政を継続して取り続けた原内閣の歳出規模は年々膨らんでいく中、「公債依存」と呼ばれた当時の財政のあり方は、不況により税収が落ち込み、行き詰まりを迎えます。
なお、1921年には暗殺された原内閣に代わり、蔵相兼任で首相となった是清の元、ここからの時代は緊縮財政路線が明確化されることとなります。しかしながら、原内閣時から歳出の削減等大きく舵をきった政策に対して、反対の声を唱える者も多く、同年には高橋是清内閣は幕を閉じることとなり、ここで高橋是清は一旦、政界から身を引くことになります。

3.高橋是清とは(後期)

【POINT 1】井上デフレ不況からの脱却の為、国債の日銀引き受け等の政策転換を図る
【POINT 2】軍部との対立が激化し、2・26事件で殺害される

時は過ぎて、1929年、高橋財政が最も注目を集めるきっかけとなった、井上準之助蔵相による「金解禁」が行われることとなります。当時の「金解禁」に対する見方はほとんど好意的なもので、マスコミ含めて日本経済を復活させる切り札として見られていました。

しかしながら、その結果として待っていたのは、大規模な緊縮財政の結果起こった景気減退でした。その原因については、本コラムで割愛しますが、井上が行った政策「旧平価での金解禁」という緊縮財政を取らざるおえない政策だったことが原因と一般的には言われています。

その後、1931年に満州事変が起こり、政友会の犬養毅内閣が発足します。犬養内閣発足後、蔵相に就任した高橋是清は就任即日に金輸出の再禁止を行います。その翌年には財政政策の転換と、満州事変の戦費調達のために国債の日銀引き受けを実施することを発表し、低金利政策も含めた政策転換を行います。
一方でこの時代の日本経済は疲弊する農村部と都市部との格差社会になったとも言われており、そんな経済状況の中、犬養毅は5・15事件によって暗殺されることとなります。

その後の是清については農村部への救済策を実施し、同時にそれまでとは一転して厳しい歳出削減策をとることで、健全財政路線に大きく舵を切ることとなりました。その結果、軍事費の削減を巡り軍部との対立が激化するようになります。そして、その後2・26事件によって殺害され、是清はその激動の一生に幕を閉じることとなります。

4.高橋是清とアベノミクスの違い

【POINT 1】積極財政のイメージが強いが、実は健全財政家だった是清
【POINT 2】過去の是清の発言からも、現在の黒田日銀政策の行き着く先は悪性インフレの可能性も

前章までの中で、高橋是清という人物がどのような人間であったかというのはご理解頂けたことと思います。この章では時代を超えて、現在の日本経済の根幹を支える「アベノミクス」と「高橋財政」が比較されている点について、相違点も含めて解説していきたいと思います。

そもそもアベノミクスと比較されている最も大きな要因は、日銀による国債の引き受けに代表される、「金融」と「財政」の両面での積極的な政策だと言われています。その結果として、戦前で最も理想的な経済成長をもたらしたと言われています。

しかしながら、別の見方をすることが出来ます。積極財政のイメージが強い是清ですが、いわゆる井上デフレ脱却時に取った政策についても、前年度比較でみれば大規模な財政支出を行ったように見えますが、実際には当時の蔵相だった井上準之助による歳出削減が行われる前との比較でみると、ほぼ同様の規模で行われており、決して無造作に積極財政と呼べるものではないとも言われます。

また、国債の引き受けについても、引き受け後に短期間ですべて売却しており、現在の黒田日銀の出口が見えない国債戦略とは一線を画すと言っていいと思われます。また、是清自身も「日銀が国債を一手に背負い込むようなことになれば、悪性インフレの原因になりかねない」というような趣旨の発言もしており、今の黒田日銀の政策にまるで過去から警鐘を鳴らすような話に聞こえます。

5.まとめ

以上のように、高橋是清という1人の財政家の人生をひも解くことで、現代の政策も様々な見方が出来ることと思います。歴史から学ぶというのはよくいったもので、金融の世界も高度・複雑化してきている中、まだまだ歴史の偉人達から学ぶことは多いのではないでしょうか?本コラムを通じて、読者の皆様に対して、そのような投げかけが出来たのであれば幸いに思います。

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